手づくりの老舗・佐田商店のきりたんぽ

佐田商店の歴史

佐田家の歴史と佐田商店の創業から現在に至る経緯

佐田家の始まり

佐田家の先祖は能登半島にある鉱山の従事者でした。
鉱山関係者が集まる北前船の寄港地盛り場で、北国の秋田にも有望な鉱山があるという話を聞き、1800年代に、佐田一族は秋田に集団移動しました。
当初は大館市比内大葛(おおくぞ)で鉱山に従事し、その後秋田市上新城の白山銀山で鉱山に従事しながら農業を兼業、ここに定住することになります。
現在、この集落には佐田の姓を名乗る家が集団で4件残っています。
佐田家の先祖は新天地に臆することなく、起業家精神を兼ね備えていたようです。

商売を始めるきっかけ

佐田家の初代三治郎は貧困農家で勉学の機会がなく、貴重な働き手として、読み書きやソロバンができないまま社会を歩み始めます。
15歳の時、最初の奉公先は北前船で繁栄する土崎湊(つちざきみなと)で造り酒屋を営む佐竹藩御用達商人の「那波商店」でした。

料亭の勝手口に御用聞きに伺い、お酒を届けるのが三治郎の日課です。
料亭の宴席は非日常で見聞きのすべてが奥深く、三治郎は商売の道に興味を抱くようになります。

お客様が最も好むのが鶏肉だという情報を板前から聞き、これからは珍重される食材と直感した三治郎は、鶏肉を扱う事業を興す夢を見始めます。

 

秋田丸

佐田商店の創業

商いを始めたい気持ちが高まり、起業の機会を三治郎はうかがっていましたが、無学なため料亭の女将にお嫁さんの世話をお願いします。

明治40年、三治郎はめでたく結婚し、同時に事業を興します。
当時は各家庭の庭先で飼われていた鶏を引き取り、料亭などの料理屋に納めていました。
奉公人時代の誠実な働きぶりで酒屋のご主人は、料理屋へ口利きしてくださり取引先が広がりました。
「取引先として料理屋が3軒あれば、家族でご飯がたべることができる」といわれた時代でした。
「朝日亭・武田亭・あきたくらぶ」と秋田市を代表する料亭との取引が叶(かな)い、それをきっかけに次々と料理屋との取引を始めることができました。

「鶏っこや」と地域の人に親しまれる

昭和2年に400坪の原野を三治郎は自ら開墾し、養鶏場を作ります。
地域の皆様からは次第に「鶏っこ家」と呼ばれるようになります。

料亭への食材配達に加え、今後の食生活の変化を見据え、昭和10年には現代の食肉販売免許にあたる「獣肉販売免許」を取得しました。
地元に高品質の動物性たんぱく質を、求めやすい価格で提供する「地域のお肉屋さん」として、豊かな食生活を支える一助を佐田商店は担いました。

戦時中は物資統制経済の中、養鶏場では毎日新鮮な卵が産み落とされます。
近所の肺病患者に統制の目を逃れ三治郎が新鮮な卵を提供し、命の卵として世代を超えて感謝されました。

三治郎は地域の人々は今後さらに豊かな食生活を営むと考え、鶏肉に加えて養豚場や野菜作りなど循環型農業へと多角化していきます。
当時の三治郎の先見性が現在の佐田商店の基礎となっていきます。

鶏っこや

土崎(つちざき)の鶏っこや

当時、鶏肉はマグロや牛肉以上に贅沢品として珍重されて、佐田商店の鶏肉は秋田市の各料亭で人気が高く評価されておりました。

秋田市の割烹・料亭などの和食店の間で土崎の「鶏っこ家」の認知度が広がっていき、きりたんぽ鍋には欠かせない鶏肉として食文化発展の裏支えをしていきました。

和食業界への手助けから、きりたんぽづくりが始まる

第二次大戦により二代目が戦死し、現社長の父親である次男の敏雄が、三代目として事業を継承します。

戦後の復興で秋田市の花柳界は大いに繁盛し、料理屋も繁忙で人手不足が起こります。そんな折、地元の料理屋の女将からきりたんぽづくりの要請が来ます。
女将は「美食家が多いので丁寧な仕事を心掛けて“おもてなしの味”を運んできて欲しい」と敏雄に伝授しました。
創業時より「お客様からの要望は、お断りしない」という商いの精神を守り、引き受けました。

三代目の敏雄は女将との約束事だった「おもてなしの心」できりたんぽをつくり、品質を決して落さずに仕事をすることを、何よりも大切に心掛けました。
それは、飲食業界全体に共通する考え方だと三代目の敏雄は重く受け止め、きりたんぽの手づくり事業を開始します。手間暇を惜しまず、伝統製法を守り、和食業界の裏方となり料亭を支えました。

きりたんぽ業界の先駆けとして多くの人たちに郷土料理を知っていただくため、地元の肉屋や八百屋にもきりたんぽを扱っていただき、一般家庭の食卓にも普及していきました。

佐田商店は「鶏っこ家のきりたんぽ」の愛称で親しまれ、料理屋のみならず、家庭の食卓にも郷土料理として浸透していきます。

郷土料理としてのきりたんぽが、全国に知れ渡るきっかけ

昭和36年に開催された秋田国体は県民のおもてなしの精神で、成功を納めます。
国体開催前から行政と飲食業界は、これを契機に郷土料理のきりたんぽを知ってもらおうと積極的に広報活動に取り組みます。

大会関係者やマスコミを通じて「秋田名物のきりたんぽ」は全国に知られるようになっていきます。佐田商店も国体開催期間中は秋田市の和食業界の要請に応え、超多忙の日々が続きました。

昭和41年(1966年) 新店舗落成

三代目敏雄の念願の新店舗がオープンし、鶏肉主体から「精肉ときりたんぽ」と精肉全般の事業へ転換をはかります。
そして、昭和44年(1969年)、四代目博が後継者として入社します。

新店舗落成

宅配の登場による新たな市場への挑戦

日本の高度経済成長が始まる昭和30年代後半から40年代後半にかけて、秋田にも大手スーパーが進出し、年を追うごとに地域経済に大きな影響を与えました。
佐田商店の取引先である料亭も県外資本に顧客を奪われ、地域全体が激変消滅時代に突入します。

昭和60年に入ると流通革命が起き、宅急便が誕生します。
永年の取引先だった料亭や飲食店が低迷する中、佐田商店は従来の飲食業界に加え、全国を視野として見据える時代を迎えます。そこで全国向けの「きりたんぽ鍋セット」を開発します。

全国の郵便局や電電公社(現在のNTT)が地域貢献を掲げ、地域の特産品販売会を開催する折には佐田商店の「きりたんぽ鍋」を紹介いただく協力を賜り、全国に配送されるようになります。これを契機に佐田商店は全国に知られていくことになりました。

これまでの秋田の和食業界での商いを通じて、時代の変化に対応することも学び、役立つことになりました。

4代目博は3代目から受け継いだ伝統を守りつつ、日々新たに進化していきたいと考えております。

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